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砂沼と佐沼
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 7月26日(火)17時06分55秒
竜ヶ崎は仙台藩領となる以前は土岐氏や芦名氏の領地となったことがあり、仙台藩領となったとき、土岐氏の家臣か芦名氏の家臣かは不明ですが、山戸土佐という人物が80石を与えられ名主となり、寛永年間に新田開発を行い佐沼新田の地名があった。現在の佐沼町はその場所より少し離れているところにある。それが佐沼の初見でありそれ以前の地名に付いては不明である。竜ヶ崎は常陸国と下総国の境に位置し、その境界は小貝川であった。古の佐沼はその小貝川の流路に位置し、湿地帯の中の島状地形であり、近くには砂流(スナッパ)や高砂の地名も残っている。故に「スナヌマ」の「砂沼・サヌマ」が「佐沼」の字に置き換わったのではないでしょうか。山戸土佐に付いて理由は不明ですが、後に処刑されています。山戸土佐の娘は伊達家三代目「綱宗」の側室となり宗房(宮床を領有)を生んでおり、墓は宮床にあります。
竜ヶ崎市歴史民族資料館より
仙台藩領竜ヶ崎
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 7月26日(火)16時57分54秒
慶長11年3月3日幕府は伊達政宗に常陸国内で26ケ村、併せて一万石余りを加増した。26ケ村の内訳は河内郡竜ヶ崎村(1238石余)、信太郡13ケ村(計5344石余)、竜ヶ崎以外の河内郡(計3473石余)であり、以後龍ヶ崎は伊達藩の飛び地としての領地となる。後、寛文3年幕府は常陸領一万石余の内、竜ヶ崎を除く河内郡12ケ村を召し上げ、代わりにほぼ同じ石高の筑波郡4ケ村を与えている。仙台藩はその支配のため「陣屋」を現在の竜ヶ崎市中心部に設け、幕末まで支配を続けた。陣屋の最高責任者として竜ヶ崎奉行が居たが、これは江戸藩邸に居ることが多く、陣屋常駐の責任者としては代官が派遣されていた。陣屋は竜ヶ崎小学校の付近にあり、建物は幕末の兵乱により打ち壊されたうえ、その後も火災に遭い跡形も無いが、江戸時代の竜ヶ崎村はこの陣屋を中心にちょっとした城下町を思わせる雰囲気だったという。竜ヶ崎民族資料館には当時の陣屋一体の姿を推測して作った模型が展示されているほか、仙台藩領時代、町外れに実際に立っていたという「仙台領」という文字が大きく刻まれた石柱二本が保存展示されている。
町の中心にあった仙台藩常陸領の陣屋「常陽芸文1993年4月号より」
相馬
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 7月 5日(火)13時47分24秒
相馬氏の発祥の地といわれる下総国相馬郡「茨城県北相馬郡」付近の五万図及び
http://www.tochi.nla.go.jp/
航空写真よりso-oma-nayかso-oma-petに該当するような地形を探しましたが、開発や開墾により地形が相当変化したと考えられ見つけることができませんでした。やはり現地に行かなければだめなのでしょうね。そういえば地図を見てて龍ヶ崎市に登米市の「佐沼」と同じ地名「佐沼」がありました。ちょっと調べてみたくなりました。
上杉の「杉本」「杉添」について
投稿者:
熊谷 齊
投稿日:2005年 7月 4日(月)16時43分24秒
「仙台地名考ー菊地」勝之助著」に杉山通方面に「杉本」「杉添」などの地名があるのは、とあるので現在の地図でどこかな、と思って探しましたが、みつかりません。今残っているところはあるのでしょうか?あれば、どのへんですか?
P.S.
投稿者:
大石灰山羊
投稿日:2005年 7月 4日(月)06時33分43秒
そうそう、そうなると、この地名は、
ソオマナイso-oma-nay(滝・ある・河谷)
か
ソオマペッso-oma-pet(滝・ある・河川)
の
どちらかになろうかと思います。
なかなか回答者が現れませんね
投稿者:
大石灰山羊
投稿日:2005年 7月 4日(月)06時30分0秒
「相馬」については、以前より、「ソオマso-oma(滝・ある)」であろうと推定していました。
しかし、それが、どの地点にあるかについては、「相馬」自体がかなり広い範囲を指し示す地名
であることから、また、現地を訪ねることができないことから、5万図は調べましたが、
そのまま放っておくしかございませんでした。
なお、アイヌ語地名は、その合流点or河口部の地形を描写したものが多いですから、
この場合は、合流点or河口部に滝がある河川(谷)を表しているものと推定されます。
「相馬」地区に、そのような地形となっている箇所はあるでしょうか?
なお、「サハマ」であるなら、「サパ・オマsapa-oma(頭・在る)」となりましょうが、
「サハマ」が「ソウマ」へ音韻変化するという法則性みたいなものは
今のところありそうには思えないので、こちらの解釈は、可能性が低いように思います。
また、「サパ」を用いた河川名は、これまであまり聞いたことはありません・・・。
教えてください
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 5月22日(日)15時39分2秒
本日の河北新聞「とうほく・地名の泉」に「相馬はアイヌ語でソオ・マ、サハ・マで、滝・谷・沢多いところを意味する」とありました。「ソオ・マ、サハ・マ」をアイヌ語でいかように理解したらよいのでしょうか?
資料
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 5月 1日(日)10時17分0秒
地形に関しては航空写真も役に立ちますよ。特に河川の古い流路の確認などが出来る場合があります。例えば田圃の中に「大曲」等の地名があったときは、その付近の航空写真を見ると、古い河道を確認することが出来ます。この
http://www.tochi.nla.go.jp/
は国土交通省の「土地総合情報ライブラリー」のページです。地価公示制度の紹介のテキスト版か地名検索より中に入ってみてください。一度に数箇所を見たい場合はテキスト版がおすすめです。地名を理解するには現地を何度もたずねることが本当に必要ですよね。そう言えばもう一つ、県土木で所有している「微地形区分図」も役に立ちますよ。後背湿地や自然堤防未発達地・発達地・埋立地などの区別を見ることが出来ます。
出典を記さぬような「記事」???
投稿者:
大石灰山羊
投稿日:2005年 5月 1日(日)07時11分3秒
オナッペ・・・難しい地名ですね。以前より、そう考えながら、想像だけはしていたのですが、
やはり、現地に「3度」は行って、また、同名の地点を巡ってみて、
その解釈の当否を斟酌してみたいものですね。
まずは、「まごころの現場主義」と申し上げたい。
o-nam-pe(t) あたりでありそうなことは論を待ちませんが、これで地名全体の音が拾われているのかどうかも検討したいものです。
なお、-pe は、その前に「子音」を要求する語ですから、仮に語尾がpeであっても、その前がnamですから、成立します。
よって、素直に解釈すると
1.オナムペo-nam-pe(川尻が・冷たくある・もの(川)) か、
2.オナムペッo-nam-pet(川尻が・冷たくある・川) と思われます。
ただ、オナッペが地名の部分であるとすると、
3.オナムペオマナイo-nampe-oma-nay(川尻に・冷水・ある・河谷)
あたりである可能性がありましょう。
・・・この解釈試案をもって、現地を訪ね、実際はどうなっているのか・・・を確認することが必要と思います。
しかしながら、出典を記していない新聞記事は、まったくもってセンスがない・・・と言わざるを得ませんね。
女遊戸・女遊部
投稿者:
御節介焼
投稿日:2005年 4月29日(金)18時29分34秒
昨日の河北新聞「とうほく・地名の泉」に「女遊部・女遊戸」(オナッペ)の地名の意味として「川尻の水が枯れる川」「水が枯れてしまった川」と説明がありました。「川尻の水が枯れる川」なら「o,sat,nayまたはpet」だと思うんですが?「女遊戸・女遊部」は「o,nam-pe,i」で「川尻、冷たい水、の処」や「o,nam,pet」で「川尻、冷たい、川」または「o,nam-pe,pet」「川尻、冷たい水、の川」辺りだと思うんですが?宮城県に二ヶ所ある「女川」も「女遊部・女遊戸」と同じ意味であり、蝦夷語を知っている人が「o,namまたはo,nam-pe」に「女」と言う字を当て「pet」は直訳して「川」の字を用いたと考えました。
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